Following the tradition

~鴨川の伝統は確実に受け継がれる~

 

渡辺将人少年とスケートボードとの出会い

当時、実家のお好み焼き屋、花福が入店していた花福荘と言うアパートであり、そのアパートに住むサーファーのお兄さん達の影響により、5歳からスケートボードを習い横乗い系スポーツの虜になりました。

 

直後に両親の離婚により、鴨川市街地から漁師町へと引っ越す事となり、アパートに住んでいたお兄さんにスケートボードを一本手渡され、それを胸に抱えてて僕のサーフィン人生の旅が始まったのである。

 

新しい環境の見知らぬ土地の高台から目に入ってきた光景は青々とそびえる渡るサーフコーストライン、産まれた街が一望できた。

 

そして今はなき赤堤(あかてい)と言うサーフポイント、約55年前に記念すべき『第1回全国サーフィン選手権大会』が開催された事でレガシーを誇るロケーションを毎日眺めながら、漁港に山積みにされた建設中のテトラポットの間で基地を作り遊び、スケートボードで行動する釣り少年としての日々を過ごしながら行動範囲を広げていき、ふもとの前原海岸へと降りて行った。

 

サーフィンとの出会い

前原海岸は(シーサイドポイント)夏になると海の家が立ち並び賑わいを魅せる。明治屋の黒潮という海の家で出会った地元サーファーである明治さんと出会った。当時使用していた黄色いツインフィンのボードを貸してもらえますか?と訪ねたことが、サーフシーンの扉を開く第一歩となりました。

 

何日もしつこく通い、サーフボードを貸してくださいとお願いすると『もっとサーフィンがやりたっかたら、そこにあるNONKEYに行ってサーフィンを教えてもらえ!』と背中を押してもらい、小学4年生だった自分は勇気を振り絞りNONKEYの門を叩きました。この時にNONKEYのオーナーであるはるさんに出会い、指導をして頂いたのが自分自身のルーツです。

 

その時期に、現在のNONKEY’s caféのお母さんであるともみさんから、使わない80年代の分厚いサーフボードを運良く譲り受けることができ、そのボードを毎日抱えて8月の前原海岸でサーフィンに明け暮れていた。。地元の洋服屋さんで母から買ってもらった、サーフブランドとは全く関係のない普通の海水パンツで10月までサーフィンに没頭。

 

初めてのサーフィン大会出場

10月10日体育の日に地元である前原海岸で開催された大会のBクラスに出場する事になりました。有名プロサーファーから『1回戦を通過したらフルスーツをあげる!2回戦を勝ち上がったらサーフボードをあげるから頑張れ!』と応援してもらいました。

 

10月の冷たい雨が降る中で凍えながら海水パンツ1枚で頑張り、1回戦をかろうじて勝ち上がりましたが、2回戦は大波に太刀打ちができずに負けてしまった。

 

大会本部テントの隅でタオルにくるまり大会を観戦していると、有名プロサーファーから『サイズのある波で諦めずに最後までよく頑張った!だからお前にフルスーツとサーフボードをあげるから!!』と声をかけてもらい、数日後に待ちに待ったウエットスーツとサーフボードを手渡されたのである。

 

それからというもの毎日冬の海でサーフィンに取り組み続け、毎日学校が終わると海に通い、平日も休みの日もスケートボードとサーフィン一色のライフスタイルを過ごしていました。

 

地元の先輩たちや東京や各地方から鴨川にサーフィンを楽しみにくる沢山のサーファーの方達に愛されて、暖かい環境に囲まれながら沢山の事を教わり、サーフィン道を邁進し続けた。